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鍋島家

鍋島直茂は肥前の守護代・龍造寺家の家臣であったが、豊臣秀吉の九州平定後は、 主家に代り三十七万七千石を領した佐賀藩主となり、鍋島家は廃藩置県まで十二代を数えた家柄である。
鍋島家にまつわる有名なエピソードに、江戸時代の化け猫騒動の伝説がある。
直茂は凡庸な龍造寺家の政家にかわり、政務をとりしきっていたが、秀吉の九州平定後、秀吉は政家を隠居させ、なにかにつけ直茂を重んじた。
やがて家督は政家の子・高房がとり、直茂は後見となる。 この時、高房は五歳で、十五歳になれば藩政を返すという約束になっていたそうだ。
しかし、関ヶ原の戦いでは一時西軍についたが、直茂らの働きにより、三十七万七千石の封印をうけ、名実ともに鍋島が佐賀の藩主となる。
龍造寺高房は鍋島を恨んで二十二歳で自殺、その子の秀明は幕府に龍造寺の回復を図ったが果たされなかったという経過から、 直茂・勝茂・光茂に怪異が現れ、苦しめたという。
後日これが「鍋島家の化け猫騒動」を生み出した。
九州佐賀の雄、鍋島家代々の墓は威風堂々の五輪塔で、整然と襟を正して祀られている。 ただし猫騒動の主人公の墓は、方向もスタイルも少し変わっている。


戒名 玉垣 60cm
職業 境石 外側10cm・内側44cm
没年齢 竿石 150cm
所在地 佐賀県佐賀市・高伝寺 石質 花崗岩(白系)
墓の方位 墓のスタイル 五輪塔
正面入り口の方位 台座 高さ55cm
1987年現在の資料に基づいております。

鍋島勝茂(なべしま かつしげ) 1580〜1657
直茂の嫡子で通称伊平太または伊勢松、信濃守を称す。初名は信茂、清茂。 朝鮮の役で父直茂と共に活躍、関ヶ原でははじめ西軍に属すが父直茂からの急使で東軍に寝返り、急遽帰国し毛利秀包の筑後久留米城、 立花宗茂の同柳川城を攻めた。この戦功と父直茂の取りなしで旧領を安堵され、大坂の役や島原の役へも参陣した。

鍋島直茂(なべしま なおしげ) 1538〜1618 
清房の子で後の肥前佐嘉藩祖。加賀守を称し、名は信昌・信生とも。斜陽の龍造寺家を最後まで支えた名参謀。今山の合戦において大友軍六万の大軍を佐嘉城に迎え撃ち、奇襲で先手大将大友親貞を討ち取ったことは有名。 主家の滅亡後には巧みに秀吉・家康に取り入り、関ヶ原では東軍に属した。 龍造寺隆信の戦死以来、事実上龍造寺氏に代わって佐嘉を支配、龍造寺高房没後は名実共に佐嘉藩主となった。 鍋島直茂は西九州を席巻した戦国大名龍造寺家の家老にして参謀であった。直茂は龍造寺家の衰退によって、その領地を「継承」し、秀吉、家康にそれぞれ所領を安堵される。
この龍造寺−鍋島の表面的には「禅譲」とされる下克上は、佐賀藩政にも尾を引くことになる。
直茂の子、勝茂は関ヶ原時には上杉北伐参加途上、三成挙兵によって進路を阻まれ止む無く西軍につくが、謝罪して許され、所領安堵される。
佐賀領35万7千石には鍋島分家の小城、鹿島、蓮池の3支藩、鍋島庶流の「御親類」白石、川久保、村田、久保田の4家、龍造寺一門の「御親類同格」多久、武雄、諫早、須古の4家の自治領がある。
佐賀藩の成立期の支藩や龍造寺一門との葛藤の雰囲気を知るには、小説なので脚色された面もあるが、隆慶一郎氏の「死ぬことと見つけたり」をご一読いただくのが、一番良い。 絶筆なので未完だが。
武士、庶民を問わず、他領への移住、他領からの移住を禁じた鎖国の中の鎖国の体制や、藩内に中世的な自治領地方知行制を多く残した点などの保守性と、長崎に隣接し、長崎警備を福岡藩と交代で隔年受け持ち、長崎を窓とした開明性進取性を併せ持った藩風であった。
十代の鍋島直正(閑叟)は開明君主として有名。西洋式アームストロング砲の製造や蒸気船の製造を行った。


墓地所在地は、変更になっている場合があります。

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