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初代 桂文團治

本名は鈴木清七。享年45歳。あだ名を風貌から「塩鯛」、俳名も同じ。
元は米屋の養子であったともいい、かもじ屋であったとも伝える。素人落語の連中に加わり半面を付けて高座に上がり三味線を弾いて人気を取った。
1871年頃に初代桂文枝の門下で初代桂米丸を経て、1873年から1875年年頃に初代市川右團次の懇意から文團治を名乗る。同門の初代桂文三(後の2代目桂文枝、桂文左衛門)、2代目桂文都(後の月亭文都)、初代桂文之助(後の2世曽呂利新左衛門)らと共に「四天王」として称えられた。
明治10年代、商才にも長けており、貸車屋、茶店などを出し蓄財し平野町御霊神社に自席を営んだ、その実力、人気共にずば抜けていた。新聞落語なども手掛けたようだが、あくまでも正統派で性格は覇気満々で、文三の当初の対抗馬はこの文團治であった。

初代 桂文團治

ある時沖仲仕の荒くれ男が寄席で『蜆売り』を聴き情に溢れ泣いてしまう。その後『笑うつもりで寄席に来たのに、オイオイ泣かすとは勘弁ならん』と楽屋に怒鳴り込んできた。文團治は返す刀で『笑うところ、泣くところ有っての芸で御座います。』と挨拶し金5円を包んで渡し、大喜びで帰った男は後に近所では『蜆売りの平吉』で通ったという。
しかし、1886年、3代目桂文吾、4代目林家正三と同じく、流行のコレラのため若くして死去。道頓堀に新しく一門の寄席を作った矢先であった。
なお、『米揚げ笊』はこの初代の作といわれる。『三枚起請』『妾通い』等の色っぽい落語得意とした。
主な弟子には、2代目桂文之助、2代目桂文團治(後の7代目桂文治)、初代桂歌團治(後に5代目笑福亭吾竹から笑福亭吉右衛門となる)、初代桂玉團治(後の3代目桂文都)、3代目桂文團治、桂鯛團治(後の桂三五郎)らがいる。

戒名   玉垣  
職業 落語家 境石  
没年齢 享年44歳 竿石  
所在地 大阪市下寺町・円成院 石質 御影石
墓の方位 墓のスタイル 和型  俗名祀り
正面入り口の方位   台座 猫足

墓地所在地は、変更になっている場合があります。

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