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藤山寛美

本名は稲垣完治(いながきかんじ)は、大阪府大阪市西区出身の喜劇役者。
女優の藤山直美は娘。弟子にはな寛太・いま寛大のはな寛太、山崎海童らがいる。
戦後昭和の上方喜劇界を代表する喜劇役者である。
1929年(昭和4年)、関西新派「成美団」の俳優・藤山秋美の末の息子として生まれる。
母は新町のお茶屋「中糸」の女将・稲垣キミ。父の病没した1933年(昭和8年)、花柳章太郎の命名で父の藤山を継承し芸名を「藤山寛美」とし、翌年1月に4歳で初舞台に立つ。関西新派の都築文男に師事し、13歳で渋谷天外(2代目)に誘われて松竹家庭劇に移るまで師弟関係にあった。
大阪大空襲で大阪の芝居小屋が焼け落ちた事もあり、1945年(昭和20年)3月に皇軍慰問隊の一員として旧満州に渡ったが、奉天(現在の瀋陽)で終戦を迎え、一時期ソ連軍に抑留される。解放された後はハルビンでキャバレーのボーイや靴磨き、芝居、ブローカーなどをしながら生き延び、1947年(昭和22年)秋に帰国。以後は各劇団を転々とし、1947年に曾我廼家十吾、師匠格に当たる2代目渋谷天外、浪花千栄子らの松竹新喜劇の結成に参加。寛美を可愛がった天外が脳出血で倒れた後は、実質的座長となった。観客によるリクエスト狂言の上演など、アイデアマンとして知られ、代表作は「鼻の六兵衛」「宝の入船」など。
1990年の年明け頃から、体に異変が起こる。3月に体の不調を訴えて検査入院、肝硬変と診断される。舞台に復帰したいと言う願いも虚しく、同年5月21日に死去。

藤山寛美の墓

亡くなる直前には、上岡龍太郎主催の劇団「変化座」の演出・プロデュースを藤山寛美が担当することとなっており、寛美の顔写真が出演者と共に写っている宣伝ポスターまで作成されていたが、上演直前に亡くなったため、陽の目を見ることがなくなってしまった(同舞台は、藤山寛美追悼公演として上演された)。また、亡くなる3日前に「中座」に行きたいと言い出し、妻と共に夜遅くに「中座」へ行ったと言うエピソードがある。
死去の際、桂米朝は「一番残念なのは後継者を育てなかったこと」と悔やみ、上岡龍太郎は「大阪の文化が滅びる」と嘆き、立川談志は「通天閣が無くなったようだ」と偲んだ。
小林信彦も、「おかしいということに関しては、この人に勝る喜劇俳優はいない」と、生前から最高の評価をしていた。 また、ダウンタウンの松本人志は著書の中で「この人は素で面白い人なのではなく、面白い人を演じることの天才なのだ」と評した。
死後、寛美の三女の藤山直美が喜劇女優として寛美の芸を受け継ぎ、舞台で「鼻のおろく」(「鼻の六兵衛」のリメイク作品)など、寛美の代表作を演目にしたこともある。
一方で、上方喜劇を残そうと考えていた寛美は、1981年(昭和56年)に弟子を曾我廼家玉太呂、曾我廼家八十吉として曾我廼家の名跡を襲名させており、今後彼らの活躍が待たれる。
2010年2月・6月には、没後20周年を記念して、直美が特別公演を開催し寛美のゆかりの演目(「女房のえくぼ」・「幸助餅」・「大人の童話」・「丁稚の縁結び 『村は祭りで大騒ぎ』より」)を披露した。

戒名 慈生院法明悦寛治徳善士 玉垣  
職業 喜劇役者 境石  
没年齢 平成2年5月21日 60歳 竿石  
所在地 大阪市住吉区・臨南寺 石質 御影石
墓の方位 墓のスタイル 大阪型 「稲垣家之墓」
正面入り口の方位   台座  

墓地所在地は、変更になっている場合があります。

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