
1868(明治元)年福井県に生まれる。共立学校(現在の開成高校)から海軍兵学校を卒業後、
日清戦争・日露戦争に参加し、1924年には海軍大将となる。
五・一五事件後の政情不安定の中、再び海相(斎藤実内閣)に就任した岡田は、定年を迎えて海相と海軍大将を退いて
「ぶらりぶらりと暮らしていたが」、元老西園寺公望の信任を得て、1934年に内閣総理大臣に任命され、組閣。
在任中に天皇機関説をめぐる国体明徴問題が起こり、岡田内閣倒閣を狙う陸軍の皇道派、
箕田胸喜など平沼騏一郎周辺の国家主義勢力、立憲政友会などから攻撃される。
1936年の二・二六事件で襲撃を受ける。この際、岡田とたまたま容貌が似ていた秘書が身代わりとなって難を逃れたが、内閣は事件後総辞職した。
日米開戦には反対し開戦後は東條英機内閣打倒につとめた。
また、東條内閣倒壊後は小磯内閣が成立、これが沖縄戦の責任を取って総辞職の後は
新首相鈴木貫太郎の内閣に女婿で大蔵革新官僚として有名な迫水久常を入閣させ、協力して終戦工作をおこない、ついに終戦へともちこんだ。
著書に『岡田啓介回顧録』(毎日新聞社1950年)がある。
墓地は凛々しく、中央一基墓、玉砂利で敷きつめられている。
戒名 |
ー |
玉垣 |
無 |
職業 |
大正・昭和期の海軍軍人・政治家 |
境石 |
有・60cm |
没年齢 |
86歳 |
竿石 |
187cm |
所在地 |
東京都府中市・多磨霊園 |
石質 |
花崗石・白 |
墓の方位 |
東 |
墓のスタイル |
普通 |
正面入り口の方位 |
東 |
台座 |
3段・高さ106cm |
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1987年現在の資料に基づいております。