
1837(天保8)年三条実万の第四子として京都に生まれる。
幼少時より三条家には桂小五郎・武市半平太・平野国臣ら勤王派の出入りが多く、尊攘派公卿としての素地が養われた。
父実万が安政の大獄に連座して隠居、出家し、失意のうちに亡くなったその志を継いで、長州藩尊攘派が京の政局を握ると尊攘派公卿の中心に立った。
1863(文久3)年、国事御用掛になると、尊攘派の志士が実美の元へ殺到した。
同年、8・18政変で三条西季知・沢宣嘉・東久世通禧・四条高隆謌・錦小路頼徳・壬生基修ら公卿とともに長州に落ちた。七卿落ちである。
その後、第1次征長のときは太宰府へ追放され、王政復古とともに王位を復し、上洛、ついで議定、副総裁兼外国事務総督・関東監府使を歴任した。
内閣制度実施と同時に内大臣となり、その後条約改正時に一時内大臣兼内閣総理大臣となっている。
以上の経過が示すように,明治時代の元勲の一人であり、国葬となる。
墓は右に夫人、左に本人が祀られ、板石、白黒の玉砂利が敷かれている。
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