僧侶の息子として生まれ、湛山自身も早稲田大学で哲学を学び、宗教研究科に進んだ僧侶である。
東京毎日新聞の記者を経て、明治四十四年に東洋経済新報社に入社、昭和十四年に社長に就任している。
大正デモクラシーの時期から昭和の初めまで、ジャーナリストとして活躍した。
戦後になって自由党に入党し、昭和三十一年には僅か七票差で自由民主党総裁に選ばれるが、病のためにたった三ヶ月の短命内閣に終わってしまう。
病が快復してからは、中国を訪問して国交回復の基礎を作った。
墓所には黒い玉砂利が敷き詰められていて、洋式の中央一基墓である。
洋墓で祀られた首相は日本始まって以来のことだ。
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墓地所在地は、変更になっている場合があります。
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