「板垣死すとも自由は死せず」の名セリフを吐いた板垣退助は、維新の激動期から大正まで力一杯活躍した人物であった。先祖は信州板垣村の出、山内一豊に召され高知県に渡ってきた。城下の餓鬼大将だった彼は十三歳で母を失い、また学問嫌いでもあった。青年期は土佐藩討幕派として行動。徳川征伐の折は、東山道鋒総督、岩倉具視の参謀として活躍、歴史の舞台へと現れた。
彼の政治的活躍は藩閥政治に対しての対抗からはじまり、自由民権運動へと変身していったのだが、その毒舌は時の政府をゆるがすほどであった。岐阜で刺客に襲われた退助、さきの名セリフを残して外遊へと旅立ち、それから政府攻撃の手をゆるめた。晩年は伯爵の拝受を再度辞退したが、最終的に拝受した。しかし、彼はあくまでも市井の人として生活し、馬好きで知られる彼の唯一の名誉職、京浜競馬クラブ会頭として余生を送っている。
墓地は広い。デンと退助本人の巨石の墓があるが、周辺の妻や子供たちの墓は、大きさや型など、すべてが気ままに建立されている。
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墓地所在地は、変更になっている場合があります。
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