
幕末の井伊大老ぐらい、日本の国民を騒がした政治家はいまい。違勅の国賊か、救国の偉人かは、いうまでもなく勅許を待たずに日米修好通商条約の調印を行なったこと、もう一つは側役の宇津木六之丞の調印反対の進言を拒否してまで調印にふみきり、末路はドラマチックに生涯を閉じた。もしもこの条約に反対したら、当時の東洋情勢からして、日米は欧米諸国の餌食にされ、植民地化されていただろうし、軍備の劣る日本は、領土を奪われ、今日の日本歴史も大きく変わっていただろう。<違勅の重罪はこの直弼が一人で甘んじて受ける>とまで決意した彼は、まさに男の花道だった。
彼の前半の人生は、決して幸福とはいえない。側室の子として生まれた日陰者だった。が、直弼三十二歳、花の舞台が巡ってきた。世子・直元が病死したので、十三代彦根藩主となった。それからの彼は、持前の忍耐力と対処力で、足場を築き、活動期には決死の覚悟で大老に就任、国難に立ち向かい、“花の生涯”を飾ったのだった。
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