安政6年(1859年)に目付。万延元年(1860年)、34歳にして日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米、地球を一周して帰国した。
その後勘定奉行、軍艦奉行など多くの奉行を務め、財政再建やフランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。
徳川慶喜の恭順に反対し、大政奉還後も薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)、罷免されて領地である上野国(群馬県)群馬郡権田村(高崎市倉渕町権田)に隠遁。
東善寺を住まいとし学問塾の師事や水田整備の日々を送った。
同年、薩長軍に逮捕。翌日烏川のほとりで斬首。
引用「小栗上野」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2009年10月14日 (水) 10:00 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org
|
墓地所在地は、変更になっている場合があります。
トップページへ戻る |