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建川美次タイトル

建川美次の墓

1880年、新潟県新潟市の野崎義孝の三男として生まれ、後に建川周平の養子となった。
1901年陸士卒業後、騎兵第9連隊付となり、日露戦争に出征、日本軍勝利に貢献。 将校斥候(建川挺身隊隊長)として下士官以下5名の部下を選び、幾度も死線を超えて何重もの敵陣を突破し、 心臓部鉄嶺を迂回するロシア軍の背後を横断1200キロの挺進斥候に成功した。
その活躍は昭和初期『少年倶楽部』に連載された山中峯太郎の「敵中横断三百里」のモデルとなる。
陸大卒業後、イギリスに駐在し、のちインド駐剳武官。 1931年3三月事件の計画には参謀本部第2部長として加担し、満州事変の挑発にも一役買った。
ジュネーブ軍縮会議に派遣され、1933年以降、第10・第4師団長を歴任後、 1936年2・26事件後の粛軍人事で予備役となり1940年〜1942年駐ソ大使、1944年〜1945年大政翼賛会総務を歴任した。

(参考文献:コンサイス 日本人名事典)

戒名 - 玉垣 -
職業 陸軍中将 境石 -
没年齢 - 竿石 -
所在地 東京都府中市・多磨霊園 石質 白御影
墓の方位 西西北 墓のスタイル -
正面入り口の方位 西西北 台座 -

墓地所在地は、変更になっている場合があります。

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