1502(文亀2)年、豊後守護の家に生まれる。
大友家19代主。肥前国の少弍資元を圧迫して北九州に進出した大内義興に対抗し、北九州諸国にわたる領国を形成した。
1536(天文5)年、資元滅亡により、大内義隆と和解したが、大内氏の大宰大弐職に対抗し、鎮西探題となる。
その後、長男の義鎮(宗麟)と側室の子塩市丸のいずれを家督とするかについて家臣の争いが起こり、1550(天文19)年、側室と塩市丸とともに就寝中、義鎮擁立派の家臣に襲撃されて重傷を負い、間もなく死去した。この変を「大友ニ階崩れ」という。
墓は静かに草葉の陰で眠っている。石で造られた屋形の中に小さな五輪塔で祀られている。
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