赤穂城主である浅野内匠頭長矩は、元禄十四年三月、江戸城に勅使を迎える接待役をおおせつかり、儀礼を司る吉良義央に教えを乞うた。しかし浅野は、当時の慣習であった賄賂を吉良に渡さなかったため、冷淡なあしらいを受ける。度重なる侮辱にたえかね、とうとう城中の松の廊下で脇差をふるい、吉良を負傷させた。そして田村右京大夫建顕の邸に預けられ、その日の内に切腹させられたのだった。赤穂藩は取り潰しとなり、ここから赤穂浪士による復讐の物語が始まるのである。
先祖の墓は赤穂にあるのだが、江戸で一人淋しく死んでいった彼の姿を、この墓にみるような思いがする。
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