山中鹿之助の野太刀が愛媛県大山祇神社の記念館にある。この野太刀をみると、彼が相当な大男で豪傑であったことが想像される。ところが、鹿之助が「願はくば我に七難八苦を与え給え」とのべたという故事は信憑性がない。作家、海音寺潮五郎氏は、「山中鹿之助という人は、無類の強さを持っているのですが、武将としてはそれほど優れた人とは思いませんね。軍勢を率いての戦いは上手ではなかったようです…」と『日本史探訪』の中でのべている。
彼は、小さいときから親分になるように母親に育てられた。その母は、鹿之助の武名が高くなる度ごとに「そなたに従う部下を大切にしなさい。勝戦さの時でも手柄はひとりじめにしてはいけません。苦労はともに分かち合いなさい」といましめていたという。
尼子氏に最後まで仕え、追い詰められた尼子勝久を自害させてから、自分は敵に降参する。忠臣だといえようか、そのあたりの真実は謎である。結局、敵の大将を暗殺する疑いがあるということで、移送の途中に殺されてしまうのだが。
墓は自然石で本名墓だ。彼が熱血漢であったことはこの自然石が物語る。敗軍の武将らしく、野辺にひとり淋しく建立されている。
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※番地等不詳のため、墓地の詳細は不明です。
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