
内助の功で戦国大名になった山内一豊。さまざまなエピソードを持った人物として親しまれている。
戦前の教科書には『馬ぞろへ』と題して、里から持参した金子十両を夫人の千代が鏡の底から取り出し、
夫の安土馬揃えに名馬を購入し、これが主君信長の目にとまり出世の糸口をつかんだという物語が掲載されていた。
千代夫人の美談は、湯浅常山が『常山紀談』に、新井白石は『藩翰譜』に、室鳩巣は『鳩巣小説』にと、いまだに語り伝えられている。
しかし、一豊は黄金十枚で、果たして土佐藩を領し得たのだろうか。
信長・秀吉・家康と三代仕えた一豊の才覚は、処世術のうまさであろう。
主が変わる度に禄高が上がり、家康に加担してから土佐二十四万石を与えられた。ここでも千代夫人の内助の功が光っている。
それは、家康に反抗する石田三成一派の手紙を千代夫人が預かり、すぐ夫一豊へ連絡の書状を送り、家康に文面を差しだし難を逃れたという。
だからこそ、関ヶ原の合戦でさして武勲がないのに、一豊は禄高が四倍する一国一城の主になったわけである。
土佐藩主になってからの一豊は善政を行い、初代藩主の名を高めた。
土佐藩主歴代筆頭、山内一豊の墓は、高知市の筆山公園の一番上に建立されている。いわば、筆山が山内家の墓所と考えるべきだ。この考え方は、加賀の前田家と同一である。そしてまた、墓の向きは、王位貴族が使用する方法と方術書に記されている『北』向きである。前田家も山内家も代々藩主として続いてきた家系である。墓地の広さ・全山を使用する大きさ、これらも共通している。
戒名 |
大通院心峯宗傳 |
玉垣 |
- |
職業 |
安土・桃山時代の武将 |
境石 |
11cm |
没年齢 |
59歳 |
竿石 |
180cm |
所在地 |
高知県高知市・筆山公園 |
石質 |
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墓の方位 |
北 |
墓のスタイル |
卵塔型(変形) |
正面入り口の方位 |
北 |
台座 |
3段・高さ 108cm |
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1987年現在の資料に基づいております。