
内村鑑三ぐらい明治、大正、昭和の日本に大きな足跡を残した人はいない。
明治二十四年の「不敬事件」は、天皇の神化に抵抗し、日露戦争に際しては、職を賭して非戦論を唱えたのは、あまりにも有名だ。
彼は初期の札幌農学校(現北海道大学の前身)が生んだ世界的人物なのである。
「青年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士の許で学んだ彼は、キリスト教の信仰に接し、
のち渡米し、アマスト大学シーリ総長から信仰の真髄を得た。
帰国後の内村鑑三は、教育者として、社会評論家として活躍し、当時の若い人々の精神的なよりどころとなった。
そしてまた、キリスト教二千年の歴史の中で、無教会主義を唱道した世界的にも第一級の人物であった。
だが、この偉大な思想家であった内村鑑三も、家庭的には恵まれていない。
最初の夫人は八ヶ月で離婚、二人目は二十三歳にして失っている。そしてまた彼が愛した次女ルツ子を十九歳で死なせている。
彼の墓は、日本人としての洋式墓第一号といえよう。竿石に入れこまれた黒いパネルには、“I for Japan:Japan for the World;The World for Christ;And All for God.”と書かれている。
戒名 |
- |
玉垣 |
無 |
職業 |
宗教家、評論家 |
境石 |
44cm |
没年齢 |
70歳 |
竿石 |
縦54cm・横97cm |
所在地 |
東京都府中市・多磨霊園 |
石質 |
花崗岩(白色系) |
墓の方位 |
北 |
墓のスタイル |
洋式墓(奇型) |
正面入り口の方位 |
北 |
台座 |
2段・高さ46cm |
|
1987年現在の資料に基づいております。