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細川ガラシャ

細川玉子(洗礼名ガラシャ)は明智光秀の三女で、15歳の時に父(明智光秀)の主君 織田信長のすすめによって、細川藤孝(ほそかわふじたか)の長男である細川忠興(ほそかわ ただおき)に嫁ぐ。その生涯は、波瀾に満ちた内容となっている。
1582年(天正10年)6月、父(明智光秀)が織田信長を本能寺で討って(本能寺の変)、自らも滅んだため玉子は「逆臣の娘」となる。
その後、丹後の山奥の三戸野に幽閉されるが、2年後には信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉(豊臣 秀吉)の取り成しもあって、大坂玉造の細川屋敷に呼び戻されるが、なかば監禁状態で外との接触を禁止されていた。
外出も許されぬ玉子が、ただ一度教会に行ったのは、1587年(天正15年)、秀吉の九州征伐に伴って忠興が出陣していたときであった。
教会では、そのとき復活祭の説教を行っているところで、玉子は修道士にいろいろな質問をした。 そのコスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。
なかば監禁状態の玉子は、その後も侍女たちの助けをかり、幾度か教会に通う。
玉子はカトリックの話を聞き、その教えに心を魅かれていった。
玉子が初めて教会に行った同じ天正15年、九州にいた秀吉から突如「バテレン追放令」が出た。
バテレンが退去するのを知った玉子は、その前に洗礼を授けてくれるよう懇願する。
密かに洗礼を受け、「ガラシャ」という洗礼名を受けた。

細川ガラシャ

「ガラシャ」とは、"Gratia"ラテン語で恩寵・神の恵みの意。
玉子は気位が高く怒りやすかったが、キリストの教えを知ってからは、謙虚で忍耐強く穏やかになったという。
その後、関ヶ原の戦いが勃発する直前の1600年(慶長5年)、石田三成は、大坂玉造の細川屋敷にいた玉子を人質に取ろうとしたが、玉子はそれを拒絶した。
三成が実力行使に出ると、玉子は家臣らに自らの命を絶たせた。
家臣らは、玉子の遺骸が残らぬように遺骸を絹衣で覆い、細川屋敷に火薬をまいて焼き払うと共に全員自害した。38歳だった。
辞世の句として、「散りぬべき時 知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」と詠んだ。
神父が細川屋敷の焼け跡から玉子の骨を拾い、遺骨を堺のキリシタン墓地に葬った。
この墓地は、まもなく徳川に破壊されている。
また、忠興は玉子の死を悲しみ、1601年(慶長6年)、神父にガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬した。

戒名 秀林院細川玉子 玉垣  
職業   境石  
没年齢 享年38歳 竿石  
所在地 大阪市東淀川区・崇禪寺 石質 御影石
墓の方位   墓のスタイル 五輪塔
正面入り口の方位   台座  

墓地所在地は、変更になっている場合があります。

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