美濃部達吉は、兵庫県加古郡高砂町に漢方医の次男として生まれた。地元では神童といわれ、兄の俊吉と共に郷土を担うホープであった。東京帝国大学法学部を卒業後、内務省に入るが、役人の仕事は性に合わなかったようだ。ヨーロッパ留学を経てから、東大教授として比較法制史(のちに憲法)を担当することになり、研究に没頭した。庶民的な人柄で、通勤も電車を利用、その講義は名演として名高く人気があったという。
しかし、ファシズムが進む昭和十年“天皇機関説”が問題となり、国益に反するということで不敬罪で告発される。著書は発売禁止となり、公職を退くことになった。軍部からの圧力も激しかったが、毅然とした態度を取り続け、敗戦後の憲法改正の際には顧問として力を尽くした。
墓所は樹木が多い。祀り方は中央一基墓で、自分を貫き通して生きた人の墓という印象である。
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