民俗学の研究は、“落穂拾い”と共通する学問である。自ら耕し、自ら収穫して分析していく。
この地味な、足で積み上げる研究の第一人者が、柳田国男なのである。
柳田国男の大テーマは、いうまでもなく、日本と日本人とをめぐる大問題を、豊富な材料を縦横に駆使し、
綿密かつ雄大な仮説を立て、奔放な想像力と推理で展開していくことである。
その見事さは、後進の民俗学者の鏡でもあった。
その糸口が、東京帝国大学の学生の頃、愛知県伊良湖岬の浜辺に打寄せられた椰子の実を見たときからであると、
『遊海紀行』に述べられている。そして晩年の『海上の道』の集大成に至るまで、雄大なロマンを求めてやまず、八十七歳の生涯を閉じた。
学問好きな一族に生まれ、兄弟八人それぞれちがう道を進んだが、それぞれ活躍している。
六男として生まれた国男は、幼少の頃は体が弱く、母の腰巾着と皆にからかわれていたが、
少年期はいたずらが激しい反面、やたらに本を読むという二つの面をもっていた。
青年期になると短歌や抒情詩を発表する文学青年であったが、文学の世界を絶ち、農政学、民俗学へと方向を転換していった。
それからは役人と学者の二足のワラジ、柳田家に養子に入っても死ぬまで新研究の発表に没頭した。
戒名 |
永隆院殿顕誉常正明国大居士 |
玉垣 |
無 |
職業 |
明治・大正・昭和期の民俗学者 |
境石 |
32cm |
没年齢 |
87歳 |
竿石 |
100cm |
所在地 |
神奈川県川崎市・春秋苑 |
石質 |
花崗岩(白色系) |
墓の方位 |
西 |
墓のスタイル |
普通 |
正面入り口の方位 |
西 |
台座 |
2段・高さ85cm |
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1987年現在の資料に基づいております。