島村抱月が新劇の狼煙を上げた人物なら、小山内薫はがっちりとこれを体系づけ、小劇場をつくって日本の新劇の指針を築きあげた人物である。
広島で生まれ、東京府立一中、一高、東大英文科へと進んだ。
在学中から詩や小説を発表、一九〇九年、市川左団次と共に自由劇場を創立。イプセンなどの近代劇を上演した。
一九二四年には築地小劇場を創立。戯曲の翻訳や翻案も多く、劇評家・演出家としての業績も大きい。
四十八年の生涯であったが、彼の死後、日本の新劇界はすくすくと成長し、発展し、現在に至っている。
そして、小山内薫の末弟・八田元夫は追悼号をつくるべく整理を行っていると、
詩・小説・戯曲・評論・紹介・翻訳・演出などの資料に驚かされ、「うわっ、仕事師だったんだなあ」と思わず溜め息をついたと言う。
墓は質素そのもの。驕ることなかれ、芸術は永遠なり、の声を聞く。
戒名 |
蘭渓院献文慈薫居士 |
玉垣 |
無 |
職業 |
明治・大正期の劇作家・演出家 |
境石 |
23cm |
没年齢 |
48歳 |
竿石 |
70cm |
所在地 |
東京都府中市・多磨霊園 |
石質 |
花崗岩(灰色) |
墓の方位 |
南 |
墓のスタイル |
普通 |
正面入り口の方位 |
東 |
台座 |
3段・高さ79cm |
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1987年現在の資料に基づいております。