
明治二十年大阪生まれ。国学院大学を卒業した大正二年、柳田国男の雑誌『郷土研究』に投書して柳田の知遇を得、以後、柳田を終生の師と仰いだ。
折口ほど日本語を愛し、正しい日本語を伝えようとした人も少ない。彼がもっとも嫌ったものに、事大主義と合理主義がある。事大主義とは「勢力の強いものに従う主義」だが、折口は有名人の言を無批判に尊んだり、大新聞の説などをすぐに信じることを極度に嫌った。また、合理的だからといって、物事を簡単にかたづけてしまうことにも強く反対した。
当時、新聞などで帝国大学を帝大と略し、一般化したとき、折口は「新聞記者が紙面を倹約しようとするやり方に同調するさもしい料簡だ。紙面を倹約するのはいいが、口でいうときまでそのように言うのは日本語を愛していないからだ」と、強く叱ったという。折口の学説が難解だといわれたのも、こんなところに原因があるのかもしれない。
彼の墓は、石川と大阪にある。どちらかというと石川の墓の方が民俗学者としてふさわしく、大阪の方は平凡であるように見受けられる。
![]() |
|
トップページへ戻る |