吉田松陰ほど幕末に影響を及ぼした人物はいない。維新へ引導を渡す起爆剤そのものであった。彼は立派な著述を残したわけでもない。自分の思想を醇化し、すぐさま行動に移す行動派というべきであろう。松陰の残した「体は私なり、心は公なり」という『坐獄日録』の文句は、彼の思想の真髄だろう。
彼は11歳で兵学の講義を殿様に進講したという。萩が生んだ大秀才だった。また、短い期間だったが、彼の門下生の中から、高杉晋作をはじめ、維新の元老伊藤博文、山県有朋などが育った。教育者としてもずばぬけた才能を持っていた。日本の近代化の原動力を彼が育てあげたといっても過言ではない。
こんな秀才がなぜ人生に失敗するのだろう。“才は才によって倒る”、人生をあせり過ぎたとしかいいようがない。そのことは彼の性格“陰”と“陽”のバランスの振幅の大きさが災いした。学問と行動の歯車が噛みあっていないともいえるだろう。せっかく江戸から護送され萩に落ち着くかとみられた松陰が、安政5年日米通商条約調印に反対して、老中暗殺を策し出発せんとして投獄され、江戸中引き回されて刑死させられてしまった。
松陰の像は戦前は全国各地にあった。また神社も数カ所存在した。それらの中で、東京都荒川区南千住の回向院と、萩市に養父吉田大助と肩を並べて祀られているのが彼の墓と認めることができる。郷里の墓も東京の墓も向きは北である。教理の墓は自然石で“松陰二一回猛子墓”と刻まれている。
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