近代日本の夜明け、大阪の適々斎塾には日本全国から優秀な青年たちが彼の門を叩いた。医学を修めるための西洋医学研究所であったにも関わらず、兵学者の大村、慶応義塾の創始者、福沢諭吉をはじめとする多くの俊才を育成した。
洪庵は備中の生まれで、十七歳で大阪に来て蘭学を学び、二十歳で江戸に出て坪井信道の弟子となったが、長崎に出て、直接オランダ人からオランダ語を学び、大阪に帰って開業。大阪で初めて種痘予防学で功績をあげ、将軍の侍従医となり、これは東大医学部の前身となった。同志とともに、種痘事業を始め、予防医学・公衆衛生の面においても力を尽くした。
洪庵の子孫もやはり医者が多い。戦後も東大医学部内部で緒方内科はその名を轟かせていた。
墓は東京と大阪の二カ所にあるが、その広さは、スケールの大きい彼の人物を映しているようだ。
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