
倉敷市の大原美術館を訪れる人は後をたたない。
その設立に巨万の富を惜し気もなく投じたのが、関西財界の重鎮大原孫三郎である。
しかし、彼の偉業は美術館だけではない。彼が創設した“大原社会問題研究所”は、日本の労働運動研究の一大拠点となった。
昭和に入ると“アカの巣窟”として特高警察の捜査を受けるようになるが、
孫三郎は一貫して「金は出すが、口は出さない」という方針を変えなかった。
大金持ちの家に生まれ、若い頃は遊蕩三昧をしたが、その非に気づき、彼は変わっていった。
父の跡を継いで倉敷紡績の社長に就任し、情熱をかたむけて事業に励んだことはもちろんだが、
どうやったらその利益を社会に還元できるかを追求した。
それが社会問題に取り組む発火点になっていたのである。
ほかにも倉敷労働科学研究所、大原農業研究所、倉紡中央病院などを設立し、それらは今でも形や名前をかえて存在している。
「わしの眼は十年先が見える」が口癖だったという孫三郎。
この言葉は、城山三郎が著した大原孫三郎伝のタイトルにもなっているが、未来を見通す彼の力は、十年どころではなさそうだ。
墓は個人墓所である。厚い囲いが巡らされた大庭園のなかに、先祖と共に眠っている。
戒名 |
共靖院殿恣徳大観居士 |
玉垣 |
− |
職業 |
大正・昭和期の実業家 |
境石 |
− |
没年齢 |
64歳 |
竿石 |
背より高い・103cm |
所在地 |
岡山県倉敷市・鶴形墓地 |
石質 |
花崗岩(白系) |
墓の方位 |
南 |
墓のスタイル |
− |
正面入り口の方位 |
西 |
台座 |
3段・高さ80cm |
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1987年現在の資料に基づいております。