明治時代には大物が二人いるといわれている。
官界では西園寺公望、経済界ではこの渋沢栄一である。
渋沢栄一は、武蔵国榛沢郡血洗島(現埼玉県深谷市)で生まれた。
彼の成長期は、幕末の風雲が日本全土を襲っていた。
多感な栄一は政治に関心を持ち、尊王攘夷論に共鳴するが、一転して一橋家に仕え、
慶喜が将軍になると幕臣となり、慶喜の弟昭武に随行してフランスに渡り、
近代的な産業設備や経済制度を見聞し、先進国への視野を広げた。
このような逸材を明治新政府が放っておくわけがない。
大蔵省租司、民部省改正掛長などを歴任、第一回国立銀行創立を手始めに、
五百社あまりの会社創立に貢献し、近代日本の資本主義的経営の確立と指導に辣腕をふるった。
まさに近代日本の無数の礎石を築いたのだった。
西に五代友厚あり、東に渋沢栄一ありといわれ、経済界の両巨頭でもあった。
そしてまた墓石も超弩級である。そんじょそこらの大名墓なんて問題ではない。
超一級の経済人の世界である。
戒名 |
泰徳院殿仁智義讓青淵大居士 |
玉垣 |
無 |
職業 |
明治・大正期の実業家 |
境石 |
無 |
没年齢 |
91歳 |
竿石 |
198cm |
所在地 |
東京都台東区・谷中霊園 |
石質 |
黒色系 |
墓の方位 |
南西 |
墓のスタイル |
巨大 |
正面入り口の方位 |
南西 |
台座 |
2段・高さ119cm |
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1987年現在の資料に基づいております。