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安井道頓

道頓は安井成安(やすい なりやす)で、通称、市右衛門。剃髪後「道頓」と名乗る。
道頓には、安井氏と成安氏の2つの出自説がある。道卜(九兵衛)は道頓の従兄弟。
1533年(天文2年)生まれ。河内(大阪府)出身。
なお、道頓は、安井定次の子とされてきたが、安井氏の出身ではなく、平野郷の成安氏出身の成安道頓(なりやす どうどん)ではないかとする見解もある。
成安氏は、征夷大将軍の大納言坂上田村麻呂の次男で平野の開発領主となった坂上広野の子孫といわれる平野氏の七名家の一つである。成安氏から安井氏になったとするこの説に対して、成安氏は摂津国平野郷に住した氏だが、道頓は河内国の出身とされていることから、否定する向きもある。しかし、平野郷は、河内国に隣接しており、成安氏の一族である坂上・平野氏は河内国にも支配地を持っていたことから、成安道頓は河内国で生まれた可能性は否定はできない。
郷土史家の中には、安井氏は本願寺の攻撃を受けた際に多くの一族を失い、定次一人が生き残ったものと思われることから係累がなく、定次に実子ができなかったために、河内国の久宝寺の隣の平野郷の有力者であった成安氏から養子を迎えたとする説を唱える者もおり、また、定次と道頓の関係を甥としている史料もあることから、定次の兄弟が成安氏に養子に入っていたか、姉妹が嫁いでいたなど、色々な可能性を指摘する郷土史家もいる。しかしながら、道頓の出自については明らかにされていない。

安井道頓

道頓堀は、1582年(天正10年)頃、豊臣秀吉から大坂城の外壕を掘鑿した功労および猫間川河岸整備に対する賞として、城南の地を拝領した。1612年(慶長17年)、城南の開発には河川の堀鑿が必要と考えた道頓は、豊臣家の許可を受け、私財を投じて城南地域中心部の水路(後の道頓堀)の堀鑿に着手した。堀鑿中の1615年(元和元年)、大坂夏の陣に巻き込まれ、豊臣秀吉の遺児、豊臣秀頼に味方して入城、大坂城内で討死した。水路の堀鑿は、道頓の死後、松平忠明の許可を受けて道頓の従兄弟の安井道卜や平野郷の坂上氏の一族の平野藤次(安藤藤次)らが跡を継ぎ、同年11月に完成させた。
道頓堀川は、大阪市を流れる木津川と、東横堀川を結ぶ全長約2,5kmの運河。
1615年の当初は新堀・南堀川・新川などと呼ばれていた。川のすぐ横が道頓堀があり、大阪ミナミの繁華街として、グリコネオン、かに道楽本店、づぼらや(フグ料理)、くいだおれなど全国的に知名度が高い場所である。
道頓堀川では、歌舞伎役者の「船乗り込み」(中村勘三郎襲名披露興行があった)や阪神タイガースの優勝時にファンが川に飛び込んだことなどが放映されたことが有名。現在は、戎橋にフェンスを設けて飛び込みを禁止。
最近、道頓堀川の水質浄化のため、イケチョウ貝(真珠の母貝の1つ)の養殖を開始したとの報道され、真珠も採取されたようである。

戒名
安井道頓:
戒名:安井道頓居士
安井道卜:
戒名:安井道卜居士
玉垣  
職業 土木家 境石  
没年齢 1533年〜1615年 83歳 竿石  
所在地 大阪市中央区・三津寺墓地松林寺 石質 御影石
墓の方位 東々南 墓のスタイル 五輪塔
正面入り口の方位   台座  

墓地所在地は、変更になっている場合があります。

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