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著名人のお墓タイトル

初代 淀屋常安タイトル

1560年(永禄3年)? 生まれ。二代言當の父である。
長子(養子)喜入善右衛門は、常安町家、斉藤町家の家祖。次子(実子)常有五郎左衛門は、大川町家の家祖となった。
山城国岡本荘の武家の出身だったが、織田信長に討たれ商人を目指すようになった。苗字を出身地の岡本、通称を三郎右衛門、名を与三郎、のちに善右衛門とした。隠居し仏門に入ってからは常安の号を名乗った。なお前期淀屋の歴代当主も三郎右衛門を名乗った。
1594年(文禄3年)、豊臣秀吉が伏見に城を築いたとき、散在する巨石の処分のため、誰も請け負わなかった大手門際の練塀工事を請け負い、巨石を大穴を掘って埋めるという「前代未聞の頓智」をもって解決し、秀吉に認められ大坂城下の土木工事に参画することになったといわれている。
1614年(慶長19年)、大坂冬の陣では、家康に陣屋の設営を申し出、条件に、野営する徳川の兵の酒や食事の配給を一手に引き受けて何万からの兵を相手に大儲けをした。 夏の陣が終わると、家康は常安の功績を称え、山城国八幡(現在の八幡市)に山林300石と帯刀を許すと、次に常安は戦死した兵士の埋葬の許可を申し出、戦場に残された大量の鎧や刀、槍などの武具類の回収権を手に入れた。

初代 淀屋常安の墓

常安が私たちに残した最も大きなものは、先物取引のシステムである。徳川幕府は米経済を基盤としていたので、諸藩は米を蔵屋敷に蓄え、必要に応じて換金し、藩経済を運営していた。しかし、取引が米問屋の間で個々に行われていたために品質や価格がまちまちであったためこれに目を付け、幕府に米市場の設置を願い出て米の取引所を開設。
現在の大阪の淀屋橋は、淀屋が架けた「淀屋橋」として常安が米市に向かう人や中之島辺りの蔵屋敷へ往来する人のために架けた橋であった。
「知恵は万斤の宝蔵といわれるように、ほっておいても蔵が年々増え、指折る暇もない。銀の子を生むこと、あたかもねずみ算のようだった」と伝えられる淀屋財産目録には「土蔵730箇所、船舶250艘、諸大名貸付金1億両、公家貸付金8000貫目、家屋敷542軒、田畑、刀剣、茶器、宝飾など1億2186万余両」と記されていた。「どんなものでも、たぐり寄せれば商売になる」とは、常安の口癖であったとのこと。
今も残る淀屋の足跡として、常安町、常安橋、淀屋橋など、その人物像は多くの謎に包まれている。続く淀屋2代目个庵(こあん)は寛永の三筆と称せられた松花堂昭乗とも交流があり、松花堂昭乗が開く茶会にたびたび招かれていた。おそらく、松花堂昭乗のスポンサーだったのではないか。
こうして天下の豪商の名をほしいままにした淀屋は、5代目淀屋三郎右衛門(通称辰五郎)のときに、ぜいたくが町人の身分をわきまえぬと、徳川幕府から米商の免許を取り消された上、家財等を没収されて潰れてしまう。


戒名 養源院以心常安居士 玉垣  
職業 江戸時代前期の商人 境石  
没年齢 元和8年7月29日 竿石  
所在地 大阪市中央区・大仙寺 石質 御影石
墓の方位 墓のスタイル 板碑形 笠付
正面入り口の方位   台座  

墓地所在地は、変更になっている場合があります。

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