
1896(明治29)年新潟県に生まれる。
中央専門学校(現・中央大学)卒業後、鉄道院に入り、鉄道省事務官から1942(昭和17)年東京急行総務局次長、事業部長、専務を経て、
’51年社長に就任。
また同時に小会社であった東映に入り、会社経営と映画製作の陣頭指揮に当たった。
その結果、東映は急成長し、さらに社長となってからは自らもプロデューサーとして
「ひめゆりの搭」「飢餓海峡」といった映画史に残る名作や「旗本退屈男」などのヒット作を生み出し、大勢の俳優・監督を輩出した。
また、多くの子供向けの名作映画を作り、母校に教育機材を寄贈するなど教育と郷土の発展にも尽くした。
他にも、日本教育テレビ(現・テレビ朝日)の会長、プロ野球「東映フライヤーズ」のオーナーなども兼任し、幅広く活躍。
日本の実業界にその名を轟かせた。著書に「この一番の人生」がある。
東映の創始者である人物らしく、一見するとすばらしく美しい感じのする墓である。
しかし、台石が三段で大きな竿石は、彼の死後、東映に暗い影を投げかけているようにも思える。
戒名 |
勝憧院釈博泉大居士 |
玉垣 |
無 |
職業 |
昭和期の実業家 |
境石 |
13cm |
没年齢 |
75歳 |
竿石 |
102cm |
所在地 |
東京都府中市・多磨霊園 |
石質 |
花崗岩・白系 |
墓の方位 |
西 |
墓のスタイル |
普通 |
正面入り口の方位 |
西 |
台座 |
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1987年現在の資料に基づいております。