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伊藤 整

伊藤整は、本名は整(ひとし)。北海道松前郡炭焼沢村(現松前町)で小学校教員の父の下に12兄弟の長男として生まれた。
父は広島県三次市出身の下級軍人で、日清戦争の後、海軍の灯台看守兵に志願して北海道に渡った。
1906年、父の塩谷村(現小樽市塩谷町)役場転職に伴い小樽へ移住。
旧制小樽中学(北海道小樽潮陵高等学校の前身)を経て小樽高等商業学校(小樽商科大学の前身)に学ぶ。小樽高商在学中の上級生に小林多喜二がいた。
卒業後、旧制小樽中学の英語教師に就任。宿直室に泊まり込んで下宿代を浮かせたり、夜間学校の教師の副職をするなどして、1300円の貯金を蓄え、2年後に教師を退職し上京する。
1927年旧制東京商科大学(一橋大学の前身)本科入学。内藤濯教授のゼミナールに所属し、フランス文学を学ぶ。また北川冬彦の紹介で入った下宿屋にいた梶井基次郎、三好達治、瀬沼茂樹らと知り合い親交を結ぶ。
その後大学を中退し、1932年金星堂編集部入社。

伊藤 整

1935年から1944年まで日本大学芸術科講師、1944年から1945年新潮社文化企画部長、1944年旧制光星中学校(現札幌光星高等学校)英語科教師、1945年から1946年帝国産金株式会社落部工場勤務、1946年北海道帝国大学予科講師、1948年日本文芸家協会理事、1949年から1950年早稲田大学第一文学部講師、1949年東京工業大学専任講師(英語)、1958年東京工業大学教授昇格、1960年から1961年コロンビア大学及びミシガン大学で講義、1962年日本ペンクラブ副会長、1963年『日本文壇史』により菊池寛賞受賞、日本近代文学館理事、1965年日本近代文学館理事長、1964年東工大を退職、1967年日本芸術院賞受賞、1968年日本芸術院会員。
1970年、没後『変容』により日本文学大賞受賞。チャタレイ裁判で有罪となったことはその社会的地位にほとんど影響しなかった。 1953年に「婦人公論」に戯文エッセイを連載し、翌年『女性に関する十二章』として一冊に纏めたところベストセラーとなり、「○○に関する十二章」という書物の出版が相次ぐなど「十二章ブーム」を巻き起こした。同名の映画(市川崑監督)に本人もナレーション・端役で出演、同年には評論『文学と人間』[2]や小説『火の鳥』もベストセラーとなるなど、一躍時の人となり、チャタレイ裁判(後述)とともに、伊藤の名を広く知らしめることになった。
1969年11月15日、胃癌のため死去。
叙正五位、叙勲三等授瑞宝章。1952年から連載していた『日本文壇史』は瀬沼茂樹に引き継がれ、1976年に完結した(単行本は1953年から78年にかけて全24巻。伊藤分は18巻まで)。
1972年から74年にかけて新潮社から『伊藤整全集』(全24巻)が刊行された。生前にも河出書房から全14巻が出ている。

戒名   玉垣  
職業 小説家・文芸評論家 境石  
没年齢   竿石 41cm(幅61cm 奥行台形下24cm 上21cm)
所在地 東京都東村山市・小平霊園 石質 花崗岩
墓の方位 墓のスタイル  
正面入り口の方位   台座 15cm
(幅64cm 奥行45cm)

墓地所在地は、変更になっている場合があります。

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