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三島由紀夫

1925年(大正14年)1月14日、東京市四谷区永住町2番地(現・新宿区四谷4丁目)に、父・平岡梓(あずさ)、母・倭文重(しずえ)の長男として生まれる。本名は平岡公威(きみたけ)。別筆名に榊山保。
祖父の平岡定太郎は、樺太庁長官などを務めた官僚。農林省の官僚を務めた父の平岡梓・母の倭文重(しずえ)の長男。 祖父の定太郎の同郷の土木工学者である古市公威から取られ「公威」と命名された。
幼少期は両親から引き離され、祖母の夏子の影響下に置かれ育てられた。
学習院中等科在学中から詩歌や散文を書き、1938年(昭和13年)「輔仁会雑誌」に、最初の短篇小説『酸模〔すかんぽ〕秋彦の幼き思ひ出』『座禅物語』が掲載された。
1941年、「輔仁会雑誌」編集長に選ばれ、処女短篇集『花ざかりの森』を手がけた。
この頃より、筆名を三島由紀夫として、1944年、『花ざかりの森』は出版された。

三島由紀夫の墓

戦後、川端康成の推薦で『煙草』『岬にての物語』などを発表し文壇の足がかりとなる。
1947年に東京大学法学部卒業後、大蔵省銀行局国民貯蓄課に勤め、並行して初の長編『盗賊』を発表するなど、役所勤めと小説家の二重生活を行っていたが無理が祟り、渋谷駅のホームから転落し危うく電車に轢かれそうになったのを機に、役所を9ヶ月で退職し作家として独立。
晩年には民兵組織「楯の会」を作り右翼的な政治活動に傾倒、日本の新右翼・民族派に多大な影響を及ぼした。
代表作は小説に『仮面の告白』、『禁色』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『午後の曳航』、『豊饒の海』四部作など。戯曲に『サド侯爵夫人』、『わが友ヒットラー』、『近代能楽集』などがある。
批評家が様々に指摘するように、人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。
文学以外でもボディービルや剣道の練習、文学座をはじめとする劇団でみずから演出、出演をしたり、映画出演、自衛隊への体験入隊などで話題をまいた。作品も精力的に描き続け、1965年には、『豊饒の海』、戯曲に『サド侯爵夫人』など発表し、この頃にはノーベル文学賞候補として世界的にも名声をあげた。
1970年11月25日、楯の会会長として自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本庁)にて、クーデターを促し失敗、割腹自殺。その美学を完成するために絶対者(天皇)が必要だとした主張とともに、死の行為は大きな波紋を及ぼし、世間を騒然とさせた(三島事件)。
筆名の「三島」は、日本伝統の三つの島の象徴、静岡県三島の地名に由来するなどの説がある。

戒名 彰武院文鑑公威居士 玉垣 30cm
職業 作家 境石 60cm(2段)
没年齢 1970年11月25日 45歳 竿石 90cm
所在地 東京都府中市・多磨霊園 石質 花崗岩
墓の方位 墓のスタイル  
正面入り口の方位 台座 104cm(3段下34cm中30cm上40cm)

墓地所在地は、変更になっている場合があります。

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