1871年(明治4年1月10日)2月28日、島根県小国村(現浜田市)に佐々山一平の長男として生まれる。浜田町裁判所検事島村文耕の養子となる。
1894年東京専門学校(早稲田大学)卒業後、「早稲田文学」記者、1898年読売新聞社会部主任となり母校文学部講師となる。
1902年から1905年まで、早稲田の海外留学生として英独留学。
帰国後、早稲田大学文学部教授となり「早稲田文学」を主宰して自然主義運動のため大いに活躍する。
1906年に坪内逍遥とともに文芸協会を設立。
しかし、1913年、松井須磨子との恋愛スキャンダルが起こり、文芸協会を脱退。
同年、松井とともに芸術座を結成した。
トルストイの小説を基に抱月が脚色した「復活」(1914年)の舞台が評判になり、各地で興行を行った。松井が歌う劇中歌「カチューシャの唄」は大ヒット曲になり、新劇の大衆化に貢献した。
1918年、抱月はスペイン風邪にかかり急逝。松井は抱月の死後、芸術座の公演を続けたが、やがて抱月の後を追って自殺。芸術座も解散になった。
2004年、東京都豊島区の雑司が谷霊園と同区の浄光寺に分骨埋葬されていた日本近代演劇の創始者 抱月の遺骨が86年ぶりに故郷の島根県金城町(現浜田市)へ里帰りすることになった。同町久佐の浄光寺に新しい墓が完成し、22日に関係者らが納骨式を開いた。
当時、同霊園の墓はこれまで抱月の三女島村トシコ(東京都在住)が管理していたが、高齢のため管理が難しくなったこともあり、トシコから「遺骨を里帰りさせたい」と同町に打診があったという。
その後、三女島村トシコが2005年に亡くなると、親族の女性が墓の世話を引き継いだ。しかし、その女性が2022年に死去。女性の遺族では管理が難しく、島根にも墓があることから、東京都豊島区の雑司が谷霊園のお墓は2022年12月に「墓じまい」することになった。
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↑現在、このお墓はありません。
↑島根県の浄光寺にある島村抱月のお墓
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