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石坂洋次郎タイトル

1900年(明治33年)青森県弘前市に生まれる。
1907年(明治40年)弘前市立朝陽小学校に入学。
病弱であったが、席次はいつも学級内で2、3番。読書が好きで、時事新報社が発行していた「少年」という雑誌を毎月講読。5、6年生の頃には友人と雑誌を作って少年小説や冒険小説を連載していたようである。
1918年(大正7年)3月に弘前中学校を卒業。1年間予備校に通った後、1919年(大正8年)4年慶應義塾大学文学部に入学。在学中の21歳の時、17歳の今井うらと結婚。
1925年(大正14年)3月に大学を卒業した後、石坂洋次郎は故郷だった弘前市の青森県立弘前高等女学校(現在の弘前中央高校)で教師として働き始める。
翌年、秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高校)に転任。この次の年の1927年(昭和2年)に処女作「海をみに行く」が雑誌「三田文学」に掲載される。

石坂洋次郎の墓

洋次郎は1929年(昭和4年)4月、秋田県立横手中学校(現在の秋田県立横手高校)に転任。そこで教師をしながら書いた「若い人」という作品が大変好評で、昭和12年に本が出版されると、たちまちベストセラーになって映画化にもなった。この作品と昭和11年に発表された「麦死なず」で洋次郎は作家としての地位を確立した。
1938年(昭和13年)には新聞での小説の連載の話がきて、洋次郎は教師を辞めることを考えていたそんな時、「若い人」の内容が皇室や軍人を屈辱しているとして告訴されてしまう。しかしこれは不起訴となったが、連載の話は流れてしまい、11月には教師も辞めてしまった。
1939年(昭和14年)3月、洋次郎は家族を連れて上京し、それまでの地方での教師生活が石坂文学を開花させ、石坂洋次郎という人間に大きな影響を与えた。
1941年(昭和16年)日本は太平洋戦争に突入。洋次郎は視察のためフィリピンに派遣されたが、帰国後は家族とともに弘前に疎開。やがて終戦。一家も東京に帰った。
1947年(昭和22年)6月、洋次郎は朝日新聞に「青い山脈」の連載を開始。この小説には新しい時代に対する期待が明るく描かれていて、戦争で疲れきった人々から大変な好評を得た。
続いて作られた映画も大成功。戦後社会を代表する作品となった。
洋次郎はその後も「石中先生行状記」や「陽のあたる坂道」など多くの小説を発表。石原裕次郎や吉永小百合どがの出演で次々に映画化され、テレビが普及した後はドラマとしても放映された。特に「青い山脈」は5回、「若い人」は4本も映画化しており、洋次郎の小説が原作の映画はそれらを含めて現在まで80本も作られている。
石坂洋次郎は1986年(昭和61年)86歳で伊東市の静養先にて老衰(硬膜下出血)で死去。
横手城址の文学碑には、横手中学(現横手高)の国語教師をしながら書き続けた『若い人』の一節、【小さな完成よりもあなたの孕んでいる未完成の方がはるかに大きなものがあることを忘れてはならないと思う】が刻まれている。

戒名 一乘院殿隆誉洋潤居士 玉垣  
職業 小説家 境石  
没年齢 1986年10月7日 86歳 竿石 100cm(幅151cm 奥行台形下45cm 上31cm)
所在地 東京都府中市・多磨霊園 石質 花崗岩
墓の方位 墓のスタイル  
正面入り口の方位 台座 37cm(幅275cm 奥行134cm)

墓地所在地は、変更になっている場合があります。

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