尾崎紅葉の名声は、いうまでもなく、『金色夜叉』によってであろう。晩年の作で、明治三十年一月から『読売新聞』に六年にわたって連載されたこの作品は三十七歳で彼の死により、未完に終わった。金では買えない真の愛情を知って悩む貫一・お宮の物語は、当時の人々の共感を得た。
紅葉の父は角彫りの名人だったが、仕事より幇間(ほうかん)として夜々花街に現れていたという。それがいつしか本業になってしまった父であった。
その父は幇間(ほうかん)を続け尾崎紅葉を東京大学法学部に入れた。しかし、その紅葉は、法学を辞め、文学部に籍をかえ、作家活動へと移っていく。天才肌の父の血の流れか、自ずと芸術の世界にひきこまれていったのだろう。ただタイコ持ちの父とちがって親分肌のところがあり、弟子たちの面倒をよくみていた。境遇が似ていることから、泉鏡花を一番かわいがり、鏡花曰く、「先生の小言は面白くてわざと叱られてみたいと思うこともあった」そうである。
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