
大正十二年七月八日、新聞は有島武郎の死を、このように大々的に報じた。“軽井沢の別荘で若い女性と心中”、「現代文壇の一明星たる小説家有島武郎氏は過日来其の愛人たる若き女性と共に軽井沢の別荘に人目を避けて滞在中であったが七日払暁両人が別荘階下の応接室で卓子の上に椅子を積み重ねて縊死してゐたのを別荘番が発見し、直ちに軽井沢署に届け出ると共に麹町下三番町九の有島武郎邸に急電を発した…」
武郎の父はもと薩摩藩士で、高級官吏退官後、実業界に入り、富を成した。父から東洋的な儒教精神と西欧的な合理主義を教育された彼は、学習院から札幌農学校に進み、在学中は内村鑑三の指導の下に熱心なクリスチャンとなる。米国に留学し、次第に信仰に疑問を持つようになり、ホイットマンの作品などの影響で社会主義思想と文学に関心を持つようになる。帰国すると、雑誌『白樺』の同人となり、武者小路実篤、志賀直哉らと共に人道主義作家となり、晩年には社会主義を理想としていた。
『カインの末裔』『生れ出づる悩み』『或る女』などの名作をのこしている。
墓は、屋型墓と本人夫妻の墓が二基建立されている。
戒名 |
- |
玉垣 |
74cm |
職業 |
大正時代の小説家 |
境石 |
62cm |
没年齢 |
45歳 |
竿石 |
123cm |
所在地 |
東京都港区・青山霊園 |
石質 |
灰色系 |
墓の方位 |
西 |
墓のスタイル |
正統とは少し異なる |
正面入り口の方位 |
西 |
台座 |
2段・高さ59cm |
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1987年現在の資料に基づいております。