
辞世の句 「糸瓜咲て痰のつまりし仏哉 痰一斗糸瓜の水も間にあはず をとヽひの糸瓜の水も取らざりき」
正岡子規の俳句は強烈な香りを拡げながら、わたしたちにぶつかってくる。しかも辞世の句にいたるまで、凄みを持っている。まさに句界の“炎の人”であったに違いない。俳句の革新復興はもとより、和歌の革新、写生文の唱道など、学問上多くの功績を残し、短い生涯を終えている。
明治文壇の裏面史で、夏目漱石と無二の親友であった。漱石が恋に破れて松山中学校の先生になったのも、子規の口添えがあったからに違いない。また子規が従軍記者となって中国に赴き、喀血して帰国したとき、真先に漱石の下宿に転げ込んでいった。親類縁者でさえ嫌う肺病にもかかわらず、漱石は文句一つ言わず、子規の面倒を見ていた。
子規は松山藩の武士の子として生まれたが、どちらかというと下級武士の子として育った。父は子規が五歳のとき亡くなり、祖父母の元で育てられたが、泣き虫の弱々しい意気地なしの子だった。発育が遅くこれが後年脊椎カリエスになる体質を持っていた。
文学者となったのは母八重が、貧しい生活に耐えながら、子規を励ましたことによる。また兄思いの妹がいたのも、子規が死に至るまで創作活動ができた支えとなったといえよう。子規は生涯独身だった。
墓は第二次世界大戦の空襲によって焼けただれていて、子規の病との闘いを暗示しているようである。
戒名 |
子規居士 |
玉垣 |
無 |
職業 |
明治時代の俳人・歌人 |
境石 |
無 |
没年齢 |
35歳 |
竿石 |
85cm |
所在地 |
東京都北区・大龍寺 |
石質 |
花崗岩(白色系) |
墓の方位 |
西南 |
墓のスタイル |
普通 |
正面入り口の方位 |
西南 |
台座 |
3段・高さ93cm |
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1987年現在の資料に基づいております。